【書評】マスターキートン12巻-2「狂った太陽」
まずはアウトプットの場をと思って作ったこの場所、書評なども書き溜めていこうと思い、その一発目は書評というか作品評というか。漫画であります。
このお話は、ソ連の核実験場の科学者村で育った二人の少年、ボリスとセルゲイが成人し、核科学者となった現在。ボリスは世界的にも優れた核科学者となっており、それを見込まれて国籍を偽ってリビアへ移ることになっていました。そこへ、ボリスを引き留めるセルゲイが現れます。セルゲイはボリスの所在を、キートン先生に依頼して突き止めます。「俺はただこの手で、より完全な核分裂を起こしたいだけだ」というボリス。「たとえ君の実験が成功してもそれがもたらすのは悲劇だけだ」というセルゲイ。
マスターキートンは私にとってかなりの頻度で読み返されていますが、結婚後は5年に1度といったところでしょうか。1993年初版のコミック、もちろんチェルノブイリ以後であります。よく考えると、311後にこの作品を読んだのは初めてかもしれません。
ところで、原子力・核を扱った作品には「太陽」を用いるよなあってイメージがあったのですが、そういいつつも「太陽を盗んだ男」くらいしか思いつきません。
あの、ピカっというのが、太陽を想起させるのでしょうね。
今は随分と大人になって、現在の情勢等を知った上で読むと、「ソ連」とか「リビア」と「イスラエル」の関係とかをよくよく調べてううむ、と唸ってしまう内容です。時代が変わっても、歴史のキーポイントは変わらないのだと再認識。
このお話に限らず、今の世界情勢を眺めた上で再読すると、また違った感想を持てるのがマスターキートンの魅力です。
読了後は、ほろりと涙を落としました。やっぱり私は、反核、かなあ。
私とワタシ
大坂なおみ なぜカタカナ字幕?ワイドショーに視聴者が苦言 | 女性自身
記念すべき第一回目、何を書こうと思った矢先にこんなニュースが目に入りました。
これって、日本語の表記についてどんなイメージが共有されているかということを再認識する、興味深いニュースだなと感じました。
これで思い出したのが、最近私が大好きなアニメ「あそびあそばせ」の1話でオリビアが枕草子を読む場面です。ご存じない方に簡単なご説明ですが、オリビアは見た目は西洋人ですが生まれも育ちも日本で完全日本語母語話者、第二言語なし、の状態である中学生の女の子です。
転校したばかりのオリビアは、新しくできた友人をからかうために日本語がよく分からないふりをしていて、いかにもな外国人アクセントで授業中に枕草子を朗読します。そこでは以下のような字幕が出ます。
春ハァ~アケボーノ YO!YO!白クナリユク山ギー WOW!
スコォーシアカリテ ムラサキダチタル雲ノ細クタナビキタール!
私はこの場面が大好きで、YO!YO!と WOW!の部分で盛大に吹き出してしまいました。ステレオタイプな「カタコトの日本語」を、最近の子らしいポップな字幕にしてあるのがとってもツボ。ここには字幕無しには成立しない笑いがあります。
一方の大坂選手の字幕ですが、批判的な意見がネットなどで見られたということに、とても安心したのが私個人の感想です。大坂選手の話しているのをわざわざ外国語風に表記する必要ないじゃない!彼女のスピーチだってちゃんと日本語だし!というような。
教科書的な正しい発音だけが日本語ではないよ、というメッセージ。
ワイドショーの字幕を批判する人々は、きっとそんな寛容さを求める故に、メディアに対して物申す人たち。ワイドショーでカタカナ字幕を付けた人は、きっとオリビアの字幕を見て面白い思った私とそう変わらない感性を持っていらっしゃると想像します。
それと同時に、「外来語の表記はカタカナを使用する」という文科省の定めたものが根強く日本人の意識に浸透している事実も強く意識させられました。カタカナ表記は日本らしくないという意見、というより絶対条件。
もしかすると、字幕を見てた聴覚障害の方々は「ああ、発音はネイティブではないけれどもちゃんと日本語で会話しているんだな」というニュアンスを感じられたかもしれません。それはきっと、生き生きとした情報として、聴覚障害者の方々に受け入れられるのではないかなとも考えました。そう考えると、カタカナ表記も一概によろしくない、バカにしているものだ、とも言いきれなくなってきます。
文字を通してどう伝えるか、工夫をした者と苦々しく思う者。報道で出る字幕、アニメで出る字幕。紙媒体とはまた異なる、動画媒体での文字表現について再考させられるニュースであります。